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バッシングは制度を利用していない人の悲鳴|当事者の声

山本由香(仮名・30代女性)

生活保護での暮らし

私は現在生活保護を利用しています。私は多くの人もやっているように節約のため店を何軒もはしごしたり、店によっては食品が値下げされるまで数時間待つなどしています。

しかし、うつ状態の症状があるため、このように節約のために長時間外出することは心身への負担がとても重いのです。うつ状態とは高熱が出たときによく似ており、体はとても重く感じられ、頭はもうろうとしています。そのような状態でも、毎日のようにスーパーへ向かいます。

また、普段から体調の影響から家で過ごす時間が長くなりがちで、その分光熱費は高くならざるを得ません。そこで光熱費節約のために、もう何年も自宅の湯船は使わず、年間を通してシャワーのみで済ませ、真夏以外は1日から2日おきの使用にするようにしています。そのような状態で外出すると、自分が臭わないか気にしながら人と会うこととなり、それはとても恥ずかしく、惨めな気分になります。

さらに少しでも支出を抑えるため、外出の際は空のペットボトルに水道水を入れて持ち運び、中身が無くなると店や駅のトイレの水道などから水を補充しますが、人々から奇異の目で見られたこともあり、いつも周囲の視線が気になります。私の行動を見た知人は、驚きのあまり絶句しており、その反応を見た時は、自分がとても恥ずかしく感じられました。

このように普段からできる限りの節約を心がけていますが、私の場合は過食嘔吐の症状があるため、体調により食費の出費が多くなってしまいます。過食のような摂食障害は、やりたくてやっているのではなく、自分の意思でコントロールできるものではありません。そのため、過食の症状による出費の不安を常に抱えています。

このように私は節約することに自身の労力と生活の時間の多くを費やし、それでも支出の不安に陥っています。そのような負担が大きいため、病気の療養に必要な「安心して休息をとる」ということも後回しになっています。気持ちにも余裕がなく、病気が回復するのかもわからないように感じられ、そのために将来のことも想像ができず、不安は増す一方です。

それなのに生活保護基準の引き下げ

このような当事者の声を聞かず、実態を一切考慮せずに、2013年から三段階に渡る生活保護基準引下げが行われました。その理由を「一般低所得者世帯との均衡や物価の下落を鑑みて、保護基準を適正化するため」と厚生労働省は言っています。

このような生活実態からさらに引き下げて適正になる生活とはいったいどんなものでしょうか。生活保護基準は日本の生活費の最低ラインであり、私のような制度の利用者にとっては生活そのものです。この国の人の生活とは、どれだけ貧しいものなのでしょうか。私は恥ずかしい思いをせず、自分のことを惨めに思わなくていい生活をおくりたいです。そして、私だけではなく、誰もが人としての尊厳を保つことのできる生活を送れる社会であってほしいと思います。

基準引き下げ訴訟の原告になって

私は、基準引き下げは憲法違反であり不当であるとして、処分の取り消しと国の責任を求める裁判の原告になりました。しかし、私はそれまで裁判の経験はまったくなく、生活保護制度さえ自分が必要となるまではほとんど知りませんでした。

また、訴えた相手には地域の福祉事務所も含まれていますが、保護申請時の窓口や保護開始後も、職員から度々威圧的な発言をされた経験から、福祉事務所職員に対して恐怖心もありました。そんな私がこの裁判に踏み切ったのには、ふたつの理由があります。

ひとつは、みなさんもご存知のとおり生活保護基準は他の社会保障制度や最低賃金などにも係わることから、いつか私が生活保護を必要としなくなっても、その後の人生において必ずこの引き下げの影響を受けるであろうということ。

もうひとつは、今後もさらなる生活保護の引き下げが続くのではという懸念です。この理不尽な引き下げの流れと、生活保護だけでなく社会保障全体の劣化もここで食い止めたいという思いから、現在の自分の立場でできることを考えた時に、この裁判の原告になることを決めました。

(しかしその後、住宅扶助や冬季加算などの引き下げが矢継ぎ早に行われ、来年度はまた基準の見直しなども予定されており、無念な思いと危機感が募っています。)

周囲の厳しい反応

私はこの裁判は現在の社会保障の在り方を問い、誰もが人間らしく生きていくために必要なものを求めていく行動のひとつだと考えています。しかし、原告になってから、周囲の人の反応は大変厳しいものでした。

働かないでお金をもらっているのに、年金よりずっと多いお金をもらっているのに、人が払った税金からお金をもらっているのに、それなのに不満を言うのか。そこは我慢するべきではないか。

そう私に告げた人たちは、私が子どもの頃、家の中にも外にも居場所がなかった時期から、本当に長い間ずっと私のそばにいてくれた最後の友人たちでした。その後、その友人たちからの連絡は途絶えました。

みんな、生活保護にそう遠くない

その人たちのうち、ある人は子どもの大学の費用と親の介護のために、老後の貯金を使い果たしたと言っていました。ある人は年金が少ない上に、医療費と介護保険料の負担が増えて生活が苦しいと言っていました。

ある人は長時間労働による体調不良や不安定な収入、職場のパワハラを嘆いていました。私には、みんな生活保護からそう遠くないところにいるように見えました。

おそらく、友人たちが抱えていた生活の困難、将来の不安などが、生活保護を利用して一定の生活を得ている私に対する不満につながっていたのではないかと現在は思っています。

生活保護へのバッシング、苛烈な批判は、制度を利用していない人の悲鳴のように聞こえます。生活保護が本来の権利としての制度と理解されるには、生活保護を利用していない人たちの生活の痛みや不安が緩和されることが必要だと私は思います。

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