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当たり前の福祉の実現を|当事者の声

市賀法雄(大阪訴訟第6回期日意見陳述要旨)

周囲の目が明らかに冷たくなり…

私は昭和47年大東市で生まれ、両親、姉、妹と共に生活していました。父親が勤めていた鉄工所代表者の借金を被らされ借金取りが来るようになった結果、私が小学3年生の時、両親は離婚し父親が出て行きました。

母は心労からうつ病となり、私の家庭は生活保護を受給することになりました。私は、周りの人の見る目が明らかに冷たくなったことをはっきりと感じました。

母が一生懸命節約して買ってくれたローラースケートについて、近所の人から「なんでそんな高いもん買えるんや。」と言われ、お店に返却したことがありました。また私は小中学校でいじめに遭い、不登校になりました。

私は、学校や先生に対する不信感から中学卒業後に働き始めました。生活が苦しかったので、給料をほとんど家計に入れていました。しかし、人間関係等がうまくいかず、退職後仕事を転々としました。

平成11年ころから派遣会社に登録し、手取り16万円くらいでした。ある時、母から家賃の滞納を打ち明けられ、やむなくサラ金から借り入れて支払いましたが、私たちは住宅を退去せざるを得なくなりました。私は母への反発から一人暮らしを始めました。

受給で1日3食できるように

その後も苦しい生活が続きました。不景気の影響で何度も雇止めに遭い、ようやく仕事を見つけても、給料のほとんどは借金返済に消えていきました。しかし、平成18年頃私は妻と知り合い結婚し岸和田市に引っ越しました。

引っ越した時、私は37歳で妻は44歳でした。私と妻は無職だったのですぐに就職活動をしましたが、私は「中学校卒業、運転免許なし」、妻も「体調不良、両ひざに痛みあり」という理由で断られ続けました。そのため、私たちは生活できなくなり生活保護の申請に行きました。

当時所持金は200円しかありませんでしたが、「年齢が若い」「仕事は探せばある」と門前払いに遭いました。私は10か月の間に合計6回も申請し続け、ようやく生活保護を受給できました。また、岸和田市を訴え3年9ヶ月にわたる裁判に勝訴しました。

私たちは生活保護を受給できた結果、1日3食の食事ができるようになり、週に2回銭湯に行くことができ、その後お風呂のある市営住宅へ引っ越すことができました。

私は、何度も妻に対し離婚を申し出ましたし、自殺しようとも考えました。しかし、妻は苦しい生活を一緒に過ごしてくれました。

当たり前の福祉を

私たちは現在、新聞配達をして収入を得ていますが、基準以下の収入なので、生活保護を受け続けています。引き下げが行われ、私たちの生活は一層苦しいものになりました。1日3食をとるため片道40分かかる店に行き、服や下着を買う余裕はありません。

妻の父のお墓参りも年2回から2年に1回にしました。片道2,000円の交通費を捻出することが難しくなったからです。

私は、少年の頃から生活保護の家庭で生活し、周囲から冷たい目で見られてきました。また、本当に苦しい生活を強いられているのに生活保護の申請を何度もはねつけられました。

憲法25条は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を認めています。国は、困窮している人に対して人間らしく生きるために当たり前の福祉を実現してほしいと思います。

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